雨の後には
その朝（３５）
１
神様から最も遠い商売をやっている男たちは、やっかいな会議を片付けなくてはナター
レもおちおち祝わせてもらえない。年末恒例の全国支部会議を控え、ローマにはパッショー
の地方幹部たちが続々終結していた。日程に余裕を持たせて集まった支部長たちが、当日
高速新線を利用して駆けつける近郊組を待ちながら、ホテルの一室に集まって情報収集と
いう名の噂話に花を咲かせる。
「ポルポの『猫』は、きれいになっただろうな」と、大ぶりの金の指輪をした指に葉巻を
挟んで、一人が口火を切った。
「わたしはじつは毎年それが楽しみで」
小さな眼鏡を鼻の先に載せた小男が応ずる。
「もう２年前になりますかな？ 中学生くらいの小娘をポルポがこの会議に連れてきたと
きには、あの男がロリータに宗旨替えをしたのかといささか驚きましたが」
「本当に！ スーツが制服に見えてしまっていて。あれは本当に女学生にしか見えなかった！」
と、軽い笑いが一座に広がる。
「近頃は女らしい体つきになってきたじゃないか」
「ポルポももったいないことをした」
「いやいや、ムショに無理を通して、まだ続いているという話だぞ」
うらやましそうな口ぶりだ。
「切れるし、出すぎないし、それで結構きれいだし」
「スタンド能力ってのもあるんだろう？ ２年前のサントゥッツァとの出入りの時にはそ
れでポルポを守ったって」
「ポルポの見る眼は確かということだ」
まだ１５かそこらのちょっときれいな娘が、自分に処女を捧げてくれてさらにその身支
度も調えないうちに、自分に仕えるために命がけでスタンドとか言う超能力を身につけて
くれるなんて、と、初老の男たちは身勝手な妄想に胸をときめかせている。
「あのシチリアのファミリーとの抗争じゃあ、玄関を破られたという知らせを聞くなり、
すぐにベッドから出て、素っ裸のままで残党をやっつけて、またとぼけた顔をして戻って
きたって聞いたよ」
ネズミを咥えて飼い主に見せに来る猫そのままのしなやかな身のこなしで。「ポルポの
猫」と呼ばれるゆえんである。
「うちの息子の嫁にどうかと思って」と、猿のような小男が、顔に愛想笑いを浮かべて一
同を見渡す。
「あんたんのとこの跡取りはまだ１５だっただろうが、年が釣り合わないよ」
眼鏡の男に一言の元に否定されて肩を落すと、
「どうかな、あの子もまだ１９だったろう？ キャリアの割りに擦れていないし、案外と
似合いかもな」と、フォローが入る。
「ポルポが手放せばの話だが」
最初に口火を切った葉巻の男が、笑いながら、実現の程度は低いと暗に示す。
まったくそういう出来のいい超能力者なら、女房にしても愛人にしても、一緒にベッド
に入れておけば自分の息子は絶対安全だろうという強かな計算であった。
……息子どころか自分の側にもらいたい！
無言のコンセンサスが一同をまとめ上げそうになったその時、ペルージャを任されてい
る男が異議を唱えた。
「秘書や側近としてつけるならまだしも、嫁として息子にめあわせるならもっとおまけが
付いてくる方が良くはないですか？ たとえば、ジェノヴァの大親分の娘。美人というな
らあっちの方が格上だ」
「マウリツィオ」
ため息が細波となって一同を巡った。
そう、顔だけなら。
ポルポの猫は、きれいといっても太陽のように光り輝いて自分の存在を主張したりはし
ない。気がつくとそこにいて、見ていると静かに心が慰められる、しみじみ心に染み通る、
そういった性格の、月か星のような美貌だった。
ジェノヴァのシマと幹部級の格も付いてくるとすれば、それこそ太陽のような金髪のあ
のガラヴァーニの娘は息子の嫁にはそれはいいだろう。だが、あの娘はそれだけではない。
「は、は、マウリツィオは野心家だな、ジェノヴァを狙うか」
引きつったような笑いが沈黙を破った。
「おまえのところの息子はどうしてる？ フィレンツェのモンテッソーリに預けたんだっ
たな」
「おい……」
先年のジェノヴァのガラヴァーニの娘とフィレンツェのモンテッソーリとのいざこざを
思い出して、支部長たちの表情がまた固まった。
自分と肩を並べる美しさを妬んで、ガラヴァーニの娘はモンテッソーリの娘を手下ども
に襲わせたのだ。十年までは遡らないが、ちょうどこの会議の頃だった。自分の身を守る
ために、ミカエラという名のモンテソーリの娘はスタンド能力を使ったらしい。捜索に市
警を駆りだし、現代科学では説明の付かない死者まで出した大騒ぎを収拾した後、ガラヴァー
ニは降格された。女同士の意地の張り合いで親やファミリーにまで面倒を掛けるような娘
は、いくら美人でも願い下げというのが一同の見解だ。スタンド能力者と判明したモンテッ
ソーリの娘は、ボスに暗殺チームへスカウトされ、それを拒むモンテッソーリの造反騒ぎ
まで起った。
「おれのところは娘がいなくてホッとしたよ、あの時ばかりは」
無理に顔を笑う顔に作って、ビヤ樽のような体格をした男が声を張り上げた。
「おれのところは、忌々しいがおれに似ていてそこは安心だ」と、小男が肩を揺らせた。
いい年をしたマフィアの中堅幹部どもが、寒そうな顔で囁き合う。
「その『ポルポの猫』が、最近のあの娘の標的らしくて」
「ペリーコロさんがうっかり褒めちまったんだってな？ あの娘の前で」
「……そりゃあ、気の毒な」
言葉を選びつつ、男たちの表情がどんどん暗くなる。
立場も、年も、張り合うことができないくらい下の身で。「ポルポの猫」の身が案ぜら
れる一同だった。
「……モンテッソーリの娘は立ち回りが上手かったから家はなんとか守れたけどな」
「……あれは上手かったうちにはいるのか？ 親父は殺されちまっただろうが」
「とりあえずフィレンツェの街と家は無傷で残したし」
「本人は暗殺チームに入って、要人暗殺をこなしてるってさ」
「暗殺、ねえ……きれいな子だったがなあ」
「気が強くって、腹も据わってた。うちの息子が、兄貴兄貴って懐いて」
「兄貴って、娘だろうが。ミカエラだろ」と、笑い声が上がる。しかし、イタリア中部の
支部長たちは身に覚えがあるので、曖昧に笑うのみだ。
「去年この会議のあとのパーティにも顔を出したろうが……さばさばしてたな。そこがあ
の娘の利口なところだ。ボスには逆らえない」
「ああ、ボスには誰も」
男たちは、黙ってしまった。
「それで、なんて言うんですか？ そのネアポリスのきれいな猫の名前は」と、マウリツィ
オが場の雰囲気を変えるために尋ねた。
「ああ、たしかブチャラティ。ブローノ・ブチャラティだ」
２
初冬のネアポリス駅の、高速新線のプラットフォーム。ローマ行きの出発時刻にはまだ
１０分以上ある。紳士然とした旅姿のグリマルディーニ老は、にこにこと留守中の指示を
タルティーニにしている。側には、上背のある頼もしい中堅幹部。こちらは、年末恒例の
全国支部会議には行き慣れているので心配はない。
心配があるとすれば……。
「まだ仲直りしてないんですか？」
ぎこちない二人を見て、フーゴがため息を吐きつつ上司に尋ねた。
「ケンカなんかしてない」
突っぱねておいて、ブチャラティは切なげに目を逸らす。そうだ、ケンカ以前の問題だ。
この秋に拾ったブチャラティの恋人が、どうもこのところご機嫌が悪い。彼の抱えるトラ
ウマというモノの種類が解ってきた今日この頃は、あまり人目に付くところに出したくは
ないのだが、グリマルディーニ老の推薦によるポルポの指示なので断るわけにも行かない。
ポルポが二人の仲を認めたということを公（おおやけ）にしたいのだろうか、今回に限っ
ては上の考えることはフーゴにはよく解らなかった。
冬の微風にプラチナの髪をなぶられながら、不機嫌な背の高い男は黙って立ちつくして
いた。今日は化粧も控えめにして、この日のために誂えたクラシコのスーツに身を固めて
いる。通り過ぎる女性客が、ついつい見とれてはぶつかったり、一行からはぐれたりして
ホームに小さな混乱を起こしている。それでも、無彩色のコーディネートは、彼が背に負っ
た十字架をなんとはなしに窺わせるようだ。どんな積極的な女性にも見とれる以上の行動
を起こさせない。彼の上司で恋人であるはずの女性さえ、親しく声を掛けることができな
い様子だった。
「昨夜はちゃんと寝たんですか？ グリマルディーニさんとコンパートメントは同じです
から、気を使ってはくれるでしょうけど」
ブチャラティに掛けた言葉に、アバッキオは反応した。細波だった心を恥じるように、
心に並べたドミノの黒い牌が倒れてゆく。それを自覚して、己の心弱さに細かく頭を振る。
滝のように背に落ちかかる髪がそれに連れて震える。ここ数ヶ月でフーゴが見いだした彼
の心中を表わす指針だ。本人は不機嫌な表情で鎧って口には出さないが、なにか気に病む
ことがあるらしい。
……困ったひとだ。
しかし、積極的に排除するほどのこともない。彼の強く公正で美しい上司に似合いの恋
人と認めたからには。
今回ばかりは、トラウマも仲違いも凍結して、全神経をブチャラティに集中させて貰わ
なくては困る。
昨夜、憔悴した面持ちのブチャラティは、初めての参加でもないのにフーゴを見上げて、
とうとう、一言、
「行きたくない」と、呟いた。
１７才になったばかりでチームを引き継いで、いろんな重圧や苦労を黙って耐えてここ
までやってきた彼の敬愛するチーム・リーダーが、はじめて口に出して弱音を見せたのだ。
フーゴは昨年が初めての参加だったが、一度でよく解った。若すぎる美しい幹部候補生
は、いじめの対象になっていたのだ。
ポルポの収監前から披露はされていたとはいえ、じゅうぶん人目を引くその存在は支部
を任される中堅幹部どもからは好色な目で見られ、同じく幹部を目指すよその跡取り娘か
らはライヴァル心をむき出しにされ、ブチャラティにはずいぶんストレスを感じる行事と
なっているようだった。
「な……に言ってるんですか」
フーゴは、甘やかさなかった。震える声で、切り捨てた。
「二人して、いい部屋取ってあるんですから、楽しんできてください。気にくわない親爺
や年増なんかそこら辺の降誕祭（ナターレ）の飾りとでも思ったらいいでしょう。うちは
今年は幹部連中に突っ込まれるようなことはなんにもありませんから。胸張って報告して
きてください……おや、しゃべるのはどうせグリマルディーニのオヤジさんでしょ？ じゃ
あ、ただ坐っていちゃいちゃしてればいい。
あっちは寒いでしょうから、気をつけて。風邪なんか引いてきたら許しませんよ」
話しているうちに、勢いが付いて、きびきびといつもの調子で言いきった。彼女の不安
には気づきながらも認めないという姿勢を示す。
泣きそうな顔だったブチャラティは、注意をひとつひとつ胸に入れて、静かに、とぼけ
た微笑みを取り戻していた。
……アバッキオ！ こういうときに役に立たないんだったら、あんたをチームに受け入
れたぼくの判断だって問われるんですからねッ！ しゃんとしてくださいよッ！
回想を打ち切って、強い目で見据えると、不機嫌そうな男は屈託を恥じてか目を落して
見せた。
年末の会議に向けて、レポートを揃えたり、留守を預けるフーゴと打ち合わせをしたり
でブチャラティが多忙だったのはアバッキオも解っていた。毎晩オフィスの退出時間が１２
時に近づいていったのを、シンデレラを待つ魔法使いのように時刻を言い立ててははやく
帰ろうと言い続けた。
一分一秒でも早く寝かせたい、長く休ませてやりたいと思っただけなのに。
ブチャラティ本人は、まるで、一刻も早く抱き合いたいと言っているかのように取って
いたみたいで。
せっかくフラットに帰り着いて、リラックスできる時間になったというのに、疲れた顔
にやっとの微笑みを浮かべて、ブチャラティは誘ってくる。
まるで、一度でもおつとめを欠かしたら、この白いライオンはふいと出て行ってしまうん
じゃないかと思っているみたいに。
神経の疲れる仕事のあとや、疲労の極に、かえって身体が性の解放を求めるというやつ
で、ブチャラティじしんが行為に溺れ、快楽を楽しんでいるならまだしも。
ポルノや男同士の酒の席などで見たり聞いたりするような乱れ方を見せるようなことは
絶えてなく、行為のさなかも表情に乏しい顔のまま青い瞳はいつもこちらをじっと見つめ
ていて、ただひたすら、こちらの愉しみのみ優先しているようなのが解らない。
自分が心を開かない、笑ってなじんでくれないと言っていろいろ心を砕いてはくれるが、
役に立たせてくれ、心を見せてくれと言うばかりで、そういうブチャラティじしんは自分
への苛立ちや、不満をぶつけてくることはない。年若い女の身で責任ある立場にあって、
いろいろと心悩むこともあるだろうに、そういうグチの吐け口にもされたことはない。た
だひたすら、きれいでやさしい面だけを向けようと心がけているようで。それを敏感に感
じるアバッキオはいよいよいたたまれない。
自分の家に帰ってからもそんなことを続けていたら、神経が参ってしまうだろうに。
……このひとはおれのことをなんだと思っているのだろう。
快楽をむさぼるための相手としてではなく、対等に心を打ち割って見せ合う伴侶として
でもないのなら、自分はこの恩人にどういう心の向け方をすればよいのだろう。
ひとりの人間として愛し、尊敬できると思い、その真心に報いたいと思い始めている自
分の心は、どこへ行けばいいのだろう。
どんな言葉も、自分の心の鬱屈を表現するには足りない。
小学生の坊主のように、ムチャに手足をばたつかせ大声で泣きわめきたいような気分な
のだった。
「親爺さん」
タルティーニが時計を見て合図した。発車の時刻が近い。グリマルディーニ老から、列
車に乗り込んでゆく。
「アバッキオ」
フーゴは、背の高い男を呼び止めた。
「任せましたからね？ あのひとのこと、護ってやってくださいよ？ 一度行けば解りま
す。ホント……お願いしますよ」
最後は、自分でも知らずに懇願になっていた。
「あァ……解った」
ブチャラティのと、自分の分と、二つの旅行カバンを両手に提げて、小さく肯いてみせ
ると、アバッキオは列車に乗り込んだ。
「フーゴくんや」
タルティーニが、列車が出てから軽い調子で声を掛けてきた。
「あの二人は、一緒に住んじゃあいないのか？」
年を経るごとに、ブチャラティに、引いては自分にも相応の尊敬を払うようになってき
た若頭は、前のような横柄な口の利き方をしなくなっていた。
「そうです。けじめってもんがあるでしょ？ それが？」
フーゴはとくに考えずに返事をした。
「だったら当然かな？ いや、男と女について穿ったことを抜かすやつがいたんだ。
……山の手のトンマーゾが、昔、同じ男と女の旅行客でも、夫婦はひとつのトランク
だが、まだ付き合って間がない気心の知れてない仲だと、一緒に旅行に行くんでもトラン
クは別々だって言ってたもんでな。
……あの二人は、まだカバン２つなんだな」
フーゴは、まじまじとタルティーニを見上げた。
「ええ……ええそうなんです」
子供ばかりのチームの中で、他人にはどうにもならない大人の心の中のトラブルに心を
悩ましていたという現実がふいに胸に迫って、フーゴは鼻の奥が痛くなった。
「帰りはひとつになってたりしてな。今時分のローマもいいぜ」
ちょっといい男のタルティーニは、唇の端で少し笑ってみせると、少年の薄い肩を叩い
た。
「……聞いた話だが、ジャポネの女があんなだってよ」
タルティーニは珍しく、気さくな笑いを顔に浮かべていた。
「辛抱強くて、いつも、笑ってるんだかどうなんだか、ほとんど無表情みたいな顔してて、
なんでもはいはい言うことを聞くんだが、最後の最後に、我慢が限界を超えると、凄いら
しい。浮気性の旦那を愛人ごと焼き殺したり、しまいには蛇になって想う相手を死ぬまで
追い回したり。女に限らねぇか。前の戦争の時は凄かったってなあ。だからアメ公は深層
じゃジャポネに力を持たしたくないんだと」と、背を揺すってみせるが、３０前のタルティー
ニにとっては、それも「聞いた話」。
「ブチャラティもそうだと？」
「あの子はほんとに、ガキの頃にこの世界に入って。リーダーがお人好しだったもんだか
ら前のチームじゃあ可愛がられてたみてえだがな。
我儘言ったのは、高校に行かしてやるって約束を艦長が破ったときぐれえだ。艦長が引
退して、ポルポさんがムショに入られておまえと二人でシマをやってくことになっても、
弱音ひとつ吐かなかった。なんかあったらおれとトンマーゾが出てってやるって言っても、
全然連絡寄越さないままでおまえと乗り切りやがった。
ほんと、猫みてえな女だよな。嬉しそうな顔も、辛そうな顔も人には見せねえで、いつ
もしれっとよそ向いてやがる。それで、持ってくるものはすっとぼけた顔してちゃんと持っ
てくるし。
……そのお利口な仔猫ちゃんが、盛りの季節が来たみてえに一気に目の色変わっちまっ
て、あの男に執着を隠さねえ。
丁度いい機会だから、ここらでガス抜きさせとけって、ポルポさんやオヤジさんのご判
断なんだよ」
「……なるほど」
ブチャラティが酒場で拾った男にくびったけだという話はもうシマを越えてネアポリス
中に広まっている。そろそろポルポから注意が来るのではというフーゴの危惧が現実にな
らなかったのは、こういうわけだったようだ。
「ちょっとうちのオフィスに寄って行けよ。いい葉が入ったから。少しは羽を伸ばせ。こ
の会議はそういう意味もあるんだぜ」
タルティーニは、丸くなりかけたフーゴの背をちょっと強めにまた叩いた。
「はい……ありがとうございます」
子供ばかりのブチャラティのチームは、舐められもしたし、重圧も感じたが、人情に厚
いネアポリスの大人たちに見守られてもいたのだった。
３
高速鉄道は前線を追い越して、ローマの手前から雨になった。隣のシートに座ったブチャ
ラティの手が伸びて、アバッキオの手を取り、握りこむ。少し引き加減にしてジャケットの
陰に隠して、アバッキオがそれにそっと指を絡める。コンパートメントの中は、沈黙が守ら
れている。グリマルディー二老が視界の隅にそれを捉えて、微笑んだ。
会議場に隣接したホテルが宿舎で、ネアポリス支部一行は先に荷物を置いて身なりを整え
てから会議場に入る。開始まで１時間を切って、エントランスには先乗りしていた地方幹部
連中が当日着組を出迎えて、賑やかな輪がいくつもできあがっていた。
「おお、来た来た！」
いちばんの歓声があがった。
「グリマルディーニの、今年もかわいい連れがあっていいのう」
代表して、幹部でもある一番の年かさの男が声を掛けた。よく通るバリトンに、一瞬、
エントランスが静かになって、到着したネアポリス支部一行に皆の注目が集まる。
「ポルポは変わりないのか？ 何かの間違いで繰り上げ出所になったりはしないのか？」
凝った細工の杖を手に威儀を正した姿は、誰が見ても「堂々たるマフィアの大物」だっ
た。
「お久しゅう。お待たせしてしまいましたかな？ ポルポさんは今もご健在ですが、残念
なことに、今年もこの老いぼれが代理で参りましたぞ」
帽子を手に茶目っ気たっぷりに挨拶して、グリマルディーニ老が半身を引くと、後ろに
控えた細身の連れを前に押し出す。
「さあ、皆さんのお目当てはこちらに。今年はちょっとしたニュースもありますぞ」
「どうも……今年もお目にかかれて嬉しいです。親分さん方も、みなさんお変わりなくて
何よりです」
地味なスーツに身を包んだネアポリスの下町の女神は、ネアポリスの海の色の眼で一同
を見回すと、低めの声でよどみなく挨拶した。
「ブチャラティ、年々きれいになるな！」
待ってましたとばかりに地方幹部どもが寄ってくる。
「やっぱり年頃の娘というのはいいもんだ、ポルポも面会が楽しみだろうて」
「春あたりに休暇を取る気はないか？ うちの息子にジュリエッタの家を案内させよう」
ヴェローナの支部長は、ブチャラティを息子の嫁にと本気で考えているらしい。
「ヴェローナまで遠出はできないだろう、だいじな身の上だからな。うちは今度家族を連
れてネアポリス観光に行こうと思うんだが、案内してくれんか？」と、横から邪魔にはい
るのは、ビヤ樽のような体型をしたミラノを任されている幹部。
「え、ええ、いろいろ忙しい身なのでご希望には添えないかも知れませんが……」
如才なく相手をするブチャラティに、オジサンどもは次々に話しかけてちやほやする。
「おいおい、入り口を塞ぐんじゃないぞ、皆の衆。ちょっと場所を変えようじゃないか」
最初に声を掛けた幹部が仕切って、一同は喫茶室へ移動しはじめた……。
４
……おれの拾い主は随分大物だったみたいだな。
あっけにとられて見守ってしまっていたアバッキオは、うっかりエントランスに取り残
されてしまった。
仕立てのいいスーツを着た、眼光の鋭い、見るからに羽振りもよさそうなマフィアの幹
部たち。最初に声を掛けてきた幹部や、ミラノの支配人はたしか警察の資料で顔写真を見
たことがある。その他の男たちもそれぞれ、各地方の支部長たちなのだろう。それらの大
物マフィアたちに、親しく交わって、物怖じしない。いつもとはちがう、地味だが正統派
の女物のスーツを着たブチャラティは、一回り大きく見えた。襟元にスカーフを巻いて、
客室乗務員のような着こなしだったが。
……任せましたからね？ あのひとのこと、護ってやってくださいよ？ 一度行けば解
ります。ホント……お願いしますよ。
フーゴの頼みが耳に蘇って、アバッキオはふと我に返った。ちやほやはされているが、
ポルポの後ろ盾があることはみな理解の上で、とくに女として身の危険があるようには見
えなかったが、随員としてリーダーから眼を離すわけにはいかない。
……まったく、ここに爆弾のひとつも投げ込めば組織は大混乱だな……。
アバッキオはため息を吐いて、にこやかに移動してゆくオジサンどもの後を追うことに
した。
その視界を、彼じしんの髪が遮った。
黄金の暴風が、エントランスのドアを開けて吹き込んできて、彼の髪を激しく乱したの
だった。
「ひどい雨！ 忌々しいこと。なんだってこんなに急に激しくなったのかしら！？」
見ると、外は確かにまた雨が激しくなって、吹き降りになっているようだった。まだ着
いていない地区もあるようだから、なおさらエントランスは騒がしくなることだろう。今
着いた金髪の女は自動ドアのセンサーの感知範囲内にいるようで、ドアは困ったように開
閉を繰り返し、湿った強風がまだ続けざまにエントランス・ホールに吹き込んでいる。
「タオルを頂戴！ なんてこと！ すっかり肩が濡れたわ！ ここの車寄せは設計ミスな
んじゃないの！？
セットも乱れたわ。部屋を用意して！ 美容師を呼んで頂戴」
真っ赤なドレスに身を包んだ女は、エントランス・ホールを自分の舞台と勘違いしてわ
めき散らしている。たしかに、肩のところが色が変るほどに濡れてしまっている。
「お嬢さん、もう会議が始まります」
脇に控えた中年の随員が、声を低めてたしなめた。なるほど、これはどこかの幹部の娘
らしい。
「少しぐらい遅れたってかまやしないわ。どうせおじさまたちのつまらない挨拶でしょ？」
「幹部の挨拶をそういうふうに仰っちゃいけませんです」
「あたしが風邪を引いちゃうわよッ。早くおしッ」
ブチャラティとの違いにアバッキオは思わず見入っていてしまった。
……ああいうのも幹部のうちにはいるのか……。
この先、どんな幹部にお目にかかれることか、と、何気なく車寄せの方へ眼をやると、
ややくたびれたリムジンが突っ込んでくるのが判った。
「ばかな！？」
この雨だ、ブレーキの制動距離は延びているだろう。しかし、スリップしたにしては、
あまりにも真っ直ぐにエントランスに突っ込んでくる車、緊張はしててるが取り乱しては
いない運転席の男の顔……。
……ここに爆弾のひとつも投げ込めば組織は大混乱だな……。
自らのほんの数瞬前の思念が蘇る。
「危ない！」
「お嬢さんッ！？」
弱いものを守ろうとする身に染みついた行動規範が、彼を動かしていた。
「この雨ですよ。スリップしちまいました。お嬢さんにお怪我なくてよかったですね」
大破したリムジンから降りたまだ３０ほどの男は、表情を動かさずに言った。脇には運
転手が、なにやら詫びことを呟きながら頭を低く低く垂れている。とっさにアバッキオが
突き飛ばしながら一緒に転がったおかげで、この赤いドレスのお嬢さんはすんでの所で難
を逃れた。
「よくも、よくもそんな白々しいことがッ！ あたしに恨みがあってのことでしょうッ？
解ってるのよッ！ あんた、フィレンツェのモンテッソーリの若頭でしょッ？」
「お嬢さん、この方が今はフィレンツェを締めてます。モンテッソーリを継いで」と、さっ
きの随員が言葉を挟む。
いよいよ風雨が吹き込んでくるようになったエントランス・ホールに坐り込んで、金髪
の女は金切り声をあげていた。雨音は激しく、彼らを取り巻いたまま響き続けている。
「養子に入ったって訳？ もう、信じられない！ 今はそういうのがアリな訳？ たかが
若頭がチームのリーダーの死後勝手にその名を名乗ってシマを引き継いだり！ 愛人のう
ちにも入らないみすぼらしい飼い猫が代理人面して顔を出したり！ ボスはいったいなに
を考えておられるのかしら！」
「お嬢さん、ボスのお考えを疑うようなことを仰ってはいけません、それより、こちらの
方にお礼を」
命の恩人ぶるつもりはなかったが、ようやく思い出して貰えてアバッキオはホッとした。
啖呵を切っている間も相当風雨に晒されていたので、女にはついジャケットを脱いで着せ
かけてやって、自身はシャツ姿で立ちつくしていた。
「ああ、あなた、済まなかったわね。おかげで怪我はないようよ」
驕慢に、手を取らせることが恩恵とでもいうようにもったいぶって手をさしのべてきた
ので、アバッキオは腰を落して、彼女が身を起こすのを手伝ってやった。
「お名前は？」
緑がかった目が、輝きを増して見上げてきた。じつは、これにはこの男は心当たりがあ
る。ちょっとは自分に自信のある女が、彼に興味を持ったときの目のいろ。彼の従姉によ
くよく言い含められているので、身の程知らずな期待はもうしない。
……あんたってば、顔と身体はちょっとは見られるけれど、気の利いたことのひとつも
言えないし、うじうじうじうじと悩むばかりがとりえで。アナベラに限らない、絶対女の
方から見限られるんだから。弁えて、いい男ぶったりするんじゃないわよ！
決めつける声を振り払うように、頭を振ってアバッキオは名乗った。
「レオーネ・アバッキオ」
「アバッキオさん、あたしは、ルクレツィア・ガラヴァーニ。ジェノヴァの跡取りよ」
「そうですか」
短く、愛想なく答えてアバッキオはあっさり手を離した。
５
「アバッキオ！ こんなところにいやがった！」
騒ぎを聞きつけて駆けつけてきたグリマルディーニの随員が、彼を引きずるようにして
ルクレツィアから引きはがした。
「これはッ！ お嬢さんに失礼はありませんでしたか？」
「いいえ。このフィレンツェのがあたしに逆恨みをして車をぶつけようとしたのを助けて
くれたのよ」
ルクレツィアが取りなしても、
「それは役に立ちましてようございましたが、出しゃばりをいたしました。こちらさんに
もお詫びを。
おまえはうちの随員だろうがよ！ ちゃんと自分の上役から眼を離さずにいやがれッ、
余計な出しゃばりをして歩くんじゃねえッ！」と、アバッキオを容赦なく小突いた。
「済みません」
アバッキオはただ頭を下げた。
「お嬢さん、滅多なことを仰っちゃ困ります。あれはボスのご意向でもう手打ちになった
はず。おれ達は別にあんたにはなにも含むところはありません」
モンテッソーリの後継者は、後ろに突っ立ったまま感情を窺わせない声を掛けてきた。
……まっすぐぶつけるつもりで突っ込んできておいて、よく言う。
アバッキオは少し口を開けて、ぼんやりその顔を見つめてしまった。と、その頭を強引
に鷲掴みに下げさせて、
「まだ新入りで。失礼の段はご容赦を」と、少しも長居をさせない雰囲気で、グリマルディー
二の護衛、名はカヴァリエリ、がアバッキオを引き立ててその場から去った。
「余計なことをするんじゃねえッ」
少し離れておいて、押し殺した声で、カヴァリエりがアバッキオをたしなめる。
「勝手に身体が動いたんだ」
放って置いてはあのルクレツィアとかいう女がぶつけられていた。それは大事じゃない
のかと言外に言う。
「向こうさんの護衛の顔を潰すことになるからだ。おまえはあのおネエちゃんの護衛だろ
うがッ！ 手前の飼い主から眼を離すんじゃねえッ」
「それは、……悪かった」
あれだけの「ファン」に囲まれていれば安全だと思ったのだ。油断した。
「あのおネエちゃんに作ってもらったジャケットを、よその女に着せてくるんじゃねえよ」
「ああ、つい」
「手の内を晒すんじゃねえ。脇に吊ってるもんが丸見えだろうが！ これでおまえは議場
に銃を持って入れねえじゃねえか……スタンド持ってたら要らねえってか？ へッ、何が
あるか判らねえってのに。おまえのおネエちゃんだって、今日は脚んとこに巻いてるだろ
うが」
アバッキオはひやっとした。確かに、銃の携帯を厳命され、今日はショルダーホルスター
に持ってきている。ブチャラティが珍しくスカート姿なのも、そのためだとはじめて彼は
気づいた。
「一枚岩の仲良しグループなんかじゃあねえんだよ、うちのファミリーはな……なんかあっ
たらこの場で大戦争だぜ？ ……回り持ちで各支部が運営を仕切ってるがな。今年はター
ラント、だったっけな。ピリピリしてッからよ、逆らうんじゃあーねーぜ」
カヴァリエリは低く、言い捨てた。アバッキオも黙って肯いて見せた。
「アバッキオ」
議場の入り口で、心配そうなブチャラティが待っていた。
「一応、武器は預からせていただいてます」
受付で、鋭い目をした連中がアバッキオに手のひらを上に向けて出してきた。
「よろしく」
ジャケットをルクレツィアに貸してきてしまったままのアバッキオは、ため息を吐いて、
ショルダーホルスターごと外して無造作に引き渡した。
「……正直に出して、あとで後悔するやつが多いがな。金属探知機もなしの自己申告になっ
てるから。だが、ここで強情張って場を荒らすのもよくない。大丈夫、おまえのことはわ
たしが守ってやるから」
微笑んで、ブチャラティが小声でフォローを入れた。
……守ってやるって。
アバッキオはまたそこに引っかかる。
……あべこべだろうがよ……。
薄い唇をへの字に結んで、一仕事した色男はまた面白くない思索の中に沈んでいった。
ダークスーツの群れの中で、真っ白なシャツ姿のアバッキオはひどく目だった。
……ありゃア、誰だ？
……ネアポリスの、ポルポの代理人の護衛だってさ。
……ジェノヴァの娘をさっき助けたってよ、みごとなスタンド・プレイ。
……フィレンツェのが真っ直ぐ車ぶつけてきたってな？
……そおりゃあ、余計なお世話だったな、は、は……。
……あそこはまだ恨んでんのか、長いな。
……いやいや、あれだけのことをされて、命惜しさに忘れたふりされんのも困るよ。い
い子分持ったよ、フィレンツェのは。
正式な式次第と同時進行で囁きが議場を巡る。事情が掴めるのは助かるが、アバッキオ
には重かった。
ジャケットを失い、そして、その姿で吹きさらしに短時間とはいえ立ちつくしていたた
めに、アバッキオは会議が始まってしばらくして身体が冷えてきたのを感じた。初冬の会
議場で、空調はスーツを着た男性に合わせられている。時間を経て、濡れたシャツが乾く
と気化熱を奪われた。しぜん、腕で自分の身を抱くようにすると、傍らのブチャラティの
手が胸元に動いた。目は演壇に向けたまま、胸元をくつろげる。
しゅるり、と衣擦れの音をさせてスカーフが外された。スティッキィ・フィンガーズが
手助けをして、ふわりと広がったそれは、アバッキオの肩から胸を覆ってくれた。澄まし
た顔で、ブチャラティは胸のボタンを留め直している。白すぎる胸元が再び隠されて、ア
バッキオはホッとしている自分を感じていた。
……どこを見ている？
囁き声は素っ気ないままだ。
……済まねぇ。
ふんわりとしたシルク一枚のことなのに、それでぐっと温かくなった。
……あのおネエちゃんに作ってもらったジャケットを、よその女に着せてくるんじゃね
えよ。
カヴァリエリの言葉をきっかけに、アバッキオの胸を温かい記憶が過ぎる。
……まさかフロラのいいひとのスーツを仕立てる日が来ようとはね。
スカルラッティの店の主人が感慨深げに笑いかけてきた。
ブチャラティが、はじめてこの会議に参加する時にスーツを作ってもらったのがこの店
で、以来ずっと、スーツはこの店で仕立てて来たらしい。
……おまえさんの寸法はとっとくからな。浮気するんじゃねえよ？
何気ない口ぶりだったが、二重の意味が込められていたのかも知れない。
……そんな余裕、ねぇよ。
ひごろオーダー・メイドのスーツを着るほどの着道楽ではない。部屋着の他には、最初
に調えたコート・ジャケットを着たきりだ。ブチャラティに紹介して貰ったこことは別の
店で、新しく洒落めかした服を作ったり、あまつさえ、それを着て他の女にちょっかいを
かけるような真似などできはしない。
こちらも、両方の意味を込めた。
温かいひとたちに慕われ、大切に見守られている女に、自分は想いを寄せられている。
そのことが解るにつれ、面はゆいような気持ちが身体の中に満ちる。
汚れきって、堕ちてゆくだけだと思っていた自分に、そんな価値があろうとはと、ふて
腐れてそれを認めない時期は過ぎた。重いとももう思わない。
今はそれが誇らしい。
強くてやさしい彼の女神の、側に立つにふさわしい男でありたいと思う心が育ってきて
いる。
無責任な囁きと、無遠慮な視線とを昂然と受けながら、肩を覆ったうすぎぬを栄誉の盾
とも思ってアバッキオは会議の時間を乗り切った。
６
各支部の報告が終わり、来年の目標やノルマを確認して議場は解散になった。このあと
は、ホールに場所を移してパーティになる。ジャケットのないアバッキオはどうしたもの
か、途方に暮れた。そこを、袖を引くものがあった。
「先ほどはどうも。どうぞこちらへ」
ルクレツィアという女にしきりに意見していた中年だった。
案内されるままに廊下を幾つも曲がる。銃をまだ返してもらっていない、と、３つめの
角を曲がったときに唐突に思い出して、背が冷たくなった。大股に歩くごとに、まだ肩に
掛かっているブチャラティのスカーフが、ひらひらと揺れた。
パーティー会場脇の小部屋に、その女は待っていた。ドアが開くと、すぐに立ち上がっ
て、今の今まで抱きしめていた例のアバッキオのジャケットを持って歩み寄ってきた。
「遅いじゃないのッ」
やや頬を染めて。髪はちゃんとセットし直しているし、化粧も幾分濃くなったようだ。
眼をきらきらと輝かせて。……どうやらルクレツィア・ガラヴァーニお嬢さんは命の恩人
に特別な感情を抱いてしまったらしい。
「……どうも」
アバッキオは口ごもる。
「これ、返すわ。ちゃんと乾かして、プレスも掛けたから」
アバッキオは黙って手を出して受け取った。
「うちの上司に作ってもらったジャケットなんで、助かります」
そう言いながら、左の手で、肩を庇っていたブチャラティのスカーフを引いて外す。撫
でるように去りながら、それはブチャラティの肌の匂いをさせた。柑橘系が出過ぎない、
好ましい香り。
「安物だわ」
「そうですか」
「そのスカーフも。センス悪い」
取り合わずに、アバッキオはジャケットの袖に手を通した。
「もっといい服を着せてあげる、一流ブランドの。あなたにはきっと似合うわ」
アバッキオは黙って背を向けた。
「結構です」と、言い捨てる。
その背に、ルクレツィアが必死で声を掛ける。
「今はネアポリスなんですって？ なにをしているの？」
「普通に地回りと、チームの賄いを」
「まあッ！ あなた、うちへいらっしゃい。もっとやりがいのある仕事を用意させるわ。
あたしの側で……。グリマルディーニのおじさまならあたしのパパとは懇意だから！ す
ぐに話を通して貰うわッ！」
「お嬢さん」
足を止めたアバッキオは、振り返り、一応礼儀を考えて向き直った。
「おれは、グリマルディーニさんじゃなく、ブチャラティ……さんの配下なんです。あの
ひとに拾って貰ったんで。リーダーには個人的に恩もあるんで、あそこから動くことはで
きません」
せっかくお言葉を掛けて貰っておいて、すいません。そう言いおいて、アバッキオはド
アを開けて廊下に歩み出た。
「あんな小娘のどこがいいの！？ 学校にもまともに通ってない、貧相な、そこら辺の名
もない貧民の子でしょうに！」
「お嬢さん、こんな稼業に足を突っ込む人間は、みんなそんなもんなんじゃないですか？」
ブチャラティがギャングになった事情を、聞いただろうか、まだ聞いていなかった気が
する。きっと、あのひとのことだから、たんなる我儘や無軌道の果てと言うことはないだ
ろう。抜き差しならない事情で足を踏み入れたのに決まっている。自分の世間の狭さを知
らずに、自分が世界の中心だと信じてひとに指図するのが当たり前のような人間に、ブチャ
ラティの事情についてあれこれいわれたくない気持ちがアバッキオの顔を上げさせていた。
……そういうちょっとした打ち明け話のひとつもして貰っていないという事実からは、
なんとか目を逸らして。
と、３歩も歩き出したアバッキオは、お嬢さんのお付きから地方幹部連中がみな興味津々
で聞き耳を立てているのに出くわして面食らった。一同は、急にわざとらしく背を向け、
身支度を調えたり、自分たちだけ訳の分かっているつもりの案件について進捗を確かめた
りと体裁をを取り繕った。そして、アバッキオが羞恥から大股で脇を通り抜ける間際にそっ
と、
……よく言った。
……おまえさんは正しいぞ。
……もっと言ってやれ、と囁いてよこすのだった。
「アバッキオ！」
誰かが呼びに行ったらしい、ブチャラティが駆け寄ってきた。なにを、と問われる前に、
アバッキオは歩きながら説明する。両脇で運営係のターラントの若いのが、パーティ会場
へのドアを開けてくれた。
「スカウトされたが、断った。おれは、あんたに命を預けてるんだって」
「バカ野郎！」
思いがけなく、ブチャラティは大声を出して彼を叱った。平手打ちが容赦なく頬を襲っ
た。
「思い違いをするんじゃない！ おまえはわたし個人のものなんかじゃないからな！ テ
ストを受けた後で言われたはずだ、ポルポさんの指示でわたしの下には付けるが、おまえ
の親分はこのパッショーネのボスなんだと！ わたし個人への感情で動くんじゃない、あ
ちらにいらっしゃるボスに、この組織に忠誠を誓うんだ！ 今ここでもう一度誓え！」
恐るべき膂力でアバッキオの身体を引き倒すと、会場の奥にしつらえられた、椅子だけ
のボスの席を指さして厳しく言い渡した。
パーティ会場に既に入っていた地方幹部たちも、アバッキオを追ってきた野次馬幹部た
ちも、声を発することなく彼らを見つめていた。
「……おれが、思い違いをしていました。この偉大な組織、パッショーネの唯一の偉大な
ボスに、心からの忠誠を、お誓いします」
膝を突いて身を起こし、混乱を声に乗せて、つっかえつつもアバッキオは見せ物になり
ながらボスに忠誠を誓って見せた。
「それでいい。
ああ、お嬢さん、こいつが思い違いをしていて失礼いたしました。ポルポさんのご指示で
こいつはわたしが今預かってますが、親分さんからうちの上司に話を通していただければ、
いつでも用立ていたします。ジェノヴァの皆さんには及びも寄りませんが、どうぞ。ガラ
ヴァーニのお嬢さんはお目が高くていらっしゃるから、きっとこいつにしかできない大き
な仕事をお世話してくれることでしょう」と、今会場に入ってきたルクレツィアをみとめ
て爽やかに笑いかけた。
「い……要らないわよッ」
ルクレツィアはセットが乱れるのも構わず頭をぶんぶん振って見せた。まだ目には悔し
そうな怒りが燃え残っているのが見える。
……ポルポの猫は時々心臓に悪い。
……そうか？ おれは腹筋がもう大変だ。
片方は胸を押さえ、片方はハンカチで目をぬぐいながら「ポルポの猫」のファン・クラ
ブの親分どもは囁きあった。
なんだかブチャラティが高度な駆け引きをやりおおせたということだけアバッキオは認
識して、パーティの間、ブチャラティの脇に立ち続けた。
……そうへそを曲げるな。
飲み物を取った拍子に、小声でブチャラティは機嫌を取ってきた。
……あんまりカッコイイところを見せつけるからだ。目立つなよ。目立つ花はすぐ盗ま
れる。大人しく大人しくしてろ……ただでさえおまえはきれいなんだから。
……あんなに目立つことをさせておいて。
アバッキオはさらに奥歯を噛みしめる。
……ボスはいらしてないが、目はどこにでも光ってる。反逆をとても恐れていらっしゃ
る。ボスへの忠誠よりチーム・リーダー個人への忠誠が強くなって、組織内のバランスが
崩れることを何より恐れていらっしゃるんだ……。支部同士の抗争も、実は裏で煽ってお
られるのはボス自身だとも聞く。気をつけろ、グリマルディーニさんみたいに長生きがし
たかったらな……。
低い声で、言い聞かせるようにして、その直後、にこやかに身を翻してよその幹部にダン
スに誘われたのを断っていた。あい済みません、不調法なもので。おみ足を踏んでしまい
ます、そんなことを言って手を振っていたが、とうとう強引に引っ張り出されて行った。
……長生きなんか、したいものか。
アバッキオは、暗い思念を目に込めて、彼の女神を見やった。
……心を偽ったまま長生きなんか、してどうなる。あんたの身が危ないともいうなら、
さっきのは忘れてやるが、絶対、心に反することを誓わさせられた恥は雪いでやる。いつ
かきっと、ボスの目の前で、あんたがなんと言おうが、あんたにだけ忠誠を誓ってみせる。
おれの命を懸けられるのはあんただけだと、おれの生はあんたの側にあると正々堂々お天
道様の下で言ってやるからな！
きらめくシャンデリアの灯りに照らされてくるくるとホールの中央を舞っているブチャ
ラティを見据えながら、混沌としていた思念が静かに凝ってゆくのをアバッキオは感じて
いた。
一度誘われて踊ってしまっては、もう他のお誘いを断ることができず、次々申し込まれ
ては延々踊り続けて、とりあえず「ファン・クラブ」の親分連中は一巡し、あとは、せっ
かくだから楽しんでこいと気を利かせた親分さんが若頭を押しつけてきたり、冥土のみや
げにとご隠居の相手を頼まれたり。いい加減我慢が限界になったブチャラティが、自分か
ら手をさしのべてアバッキオを誘った。
「目立つなと言っておいて」
左右を見て挙動不審になりながら、とうとうアバッキオは進み出て手を取った。
「だって、わたしだって心配だもの。こうしていれば、二人とも相手が側にいるから安心
だ」
他の相手の時とは密着度がはなから違う。ブチャラティはうっとりと身を寄せて、リー
ドに従う。
「ほら、みんな気を遣って、もう声を掛けてこないだろう？」
「もうあんたと踊りたいひとは一巡したんじゃないかな？ 随分長く踊ってたぞ。脚が疲
れないか？ もう休んだらどうだ」と、アバッキオは腰が引けている。
「黙れ。せっかくいい気分なんだからもう少しだけこうしていよう」
うっとりと見上げられても、アバッキオの方はステップを踏むために大汗をかいて大昔
の記憶を検索している。許嫁とパーティーで踊るために猛特訓された中学生の頃の記憶だ……。
女に恥をかかせるんじゃありませんと基礎を叩き込んでくれたオフクロのおっかなかった
こと！
……真面目にやっといて良かった！
「おい、スタンドを出すな！ 誰が見てるか判らないんだ！」と、ブチャラティが背後に
目を留めてぎょっとして言った。
「す、すまん、つい……」
「ありゃァ、本物だな」
ホールの真ん中で延々踊り続ける二人を見つめて、「ポルポの猫」のファンを自任する幹部が苦笑
した。
「まあ、あんな蕩けそうな顔をするもんかね。やっぱり『ポルポの猫』も、ただの娘ッ子だったんだ
なあ」
「どこで見つけてくるもんかねぇ、まあ、似合いだな」
「ヴェローナの、諦めな。あれに割り込もうなんて野暮なことを考えちゃいかんよ」
「いやッ！ うちの下の息子はまだ５才だッ！」
ヴェローナの支部長がヤケになったように身体を揺すって言った。
「あ、ああそうだったな、それがどうした？」
「あの様子じゃここ１，２年のうちに赤ん坊が生まれるだろう。どっちに似ても美人に決まってるか
らその子を下の息子の嫁にッ！」
手に負えない、とファン・クラブのオジサンどもは肩をすくめた。
７
「……グリマルディーニさんがいなかったな？」
パーティも一応のプログラムは終了して、あとは興の乗るままに自由解散となった。い
ろいろお誘いを掛けてくるファンの親分たちをあしらいつつ、ブチャラティとアバッキオ
は宿舎に引き取った。
「途中で、大切な打ち合わせがあると言って幹部会のひとと移動していた」
……グリマルディーニさんが抜けるからよ、おまえはおネエちゃんをちゃんと見てろよ？
ファンの親分さんたちは抜け駆けはしねえが、かえってなんも解ってねえ下っ端がやべえ。
なんてたってあのおネエちゃんはそこら辺のコンパニオンより上玉だからな、狙われてね
えわけがねえんだぞ。１０年ほど前、どっかの地方幹部のお嬢さんがどっかの下っ端に襲
われたってんで大騒ぎになったこともあるんだ……気を抜くな。
カヴァリエりが噛んで含めるように言いおいて行ってくれたので、アバッキオはいよい
よ全身から「寄ると殺す」オーラを出して警戒していたところだった。
「なんだろう？ そういえば、ニュースがあるとも言ってらしたようだが」
話をしながら廊下を通って、ドアを開け、客室に入る。オートロックのかかる音を確認
して、ドアチェーンもしっかり掛ける。振り向いて、ツインのベッドを見て、二人とも、
ふいに押し黙った。
ダンスの余韻で、そういえば二人、ぴったりと身をくっつけたまま歩いてきてしまって
いた。二人の関係は、組織にばれてしまっただろうか。ネアポリスではもう周知の事実だ
が、イタリア全土のパッショーネの幹部に知られていいものだっただろうか。
思考の迷路に踏み込んだアバッキオの腕から、力が抜けた。それを感じ取って、ブチャ
ラティが一歩進み出て距離を開けた。
「巻き込むつもりはなかったんだが」
ブチャラティが口を開いた。
「どうもあのガラヴァーニのお嬢さんはわたしが目障りみたいで。なにかと難癖を付けて
くるんだ、昔から。おまえまで目を付けられるとは思わなかった」
そういう事情があるなら話しておいて欲しかった。フーゴの注意は、言葉足らず過ぎた。
最大級の余計なお世話をやってしまったわけだ。
アバッキオが胃に重みを感じている間に、ブチャラティはやや重苦しく息を吐いた。
「おまえ、あのお嬢さんを見てなんとも思わなかったのか？ あんなきれいなひとが、き
れいな金髪の、華やかな女らしいひとが」
おまえを好きだと言ったようなものだったのに。
少しの痛みを胸に感じて、ブチャラティは終いまで言葉を続けられなかった。
「金髪なんか見慣れてる」
素っ気なく、アバッキオは言って近寄った。黙って見ているには痛々しい顔をしている
と思ったので。
「そうだな、毎日鏡の中にいるな」
ブチャラティは一瞬惚けた顔になって、そして、次の瞬間には笑う顔を作って言った。
彼の見る、久し振りの笑顔だった。まだまだ淡い、手の中で消える淡雪のような笑顔。
……いや、そうじゃなくて。
訂正の言葉は、口の中に消えた。
「……おれは、ブルネットの方が好きだな」
ようやっと、彼は言うべき言葉を思いつく。
「そうか？」
ブチャラティは、背を向けて、スーツを脱いでクローゼットに掛けていた。地味だが、
着ているひとを引き立たせる服。ブチャラティをよく知る店の主人が手がけた服だけのこ
とはある。あの女の着ていた服とは違う。
「ああいう服も、好きじゃない」
「そうか」
ブチャラティの返事は、変わらず素っ気ない。自分の旅行カバンを開けて、シャワーを
使う準備を始めている。
「…………今日のあんたは、すてきだよ」
かすった！ 色事に慣れていないなりに、アバッキオは必死に考えて、手探りに、大切
な女の心を捕まえることのできる言葉を探す。
小さな、白い顔が、今は年より幼い表情をつくって、怯えたようにアバッキオを見上げ
ている。
……怯えているのじゃない、信じられないんだ。
思いがけない言葉を聞いて、途方に暮れて、判断に困っている表情だ。
……もっと、真っ直ぐ、解りやすく心の届く言葉を。
心の中に少しずつ溢れてくる、温かい、優しい気持ちをそのまま残らず伝える言葉を。
「おれは、あんたがすきだよ」
温かく、丸ごと自分をうけとめてくれる相手に、素直に向き合いたいと思う心。優しい笑
顔に心和み、同じ刺激をまた受けたいと思う自然な心の動き。その顔が見たい。また笑っ
て欲しい。優しい声を聞きたい……。
単純で真っ正直な言葉は、相手に届いたようだった。瞬時に表情が輝き、柔らかく華や
いだ。
……なんだ、こう言えば良かったのか。
アバッキオは、拍子抜けたような気持ちになりながら、それでもその笑顔から目を離せ
ないでいた。
きれいだ。
言葉で告げるより先に、手が伸びて、その顔を両手に捉えてしまっていた。
いとしい。
それはもう言葉にはならなくて、アバッキオはただ顔中に口づけを降らせることで表現
する。
……ちょっとッ！ 文明人なんでしょうあんたはッ！ 最後まで言葉を尽くして表現し
てコミュニケーションを取ることを放棄しちゃダメでしょッ！
妙に世話焼きの天使の顔の参謀が、額に青筋を立てて怒鳴るのが脳裏に浮かぶ。
……ごめんな、フーゴ。
もう、額も、こめかみも、両の目蓋も、鼻の頭も、頬も唇の端も顎も、そして唇も、唇
で触れて押印することが魔法の扉の解錠シークェンスかのように思われて。ただその動き
を厳かに繰り返すことしか思いつかない。
ブチャラティの腕が、そっとその背に回された。
８
「ブチャラティ、そろそろ起きないと」
翌朝、時計とにらめっこしながら、アバッキオは恋人に声を掛ける。
「もうちょっと」
もう目覚めているのに、ブチャラティは枕にしがみついたまま離れない。
「こういうところは早めに行かないとめしがなくなるんじゃないのか？」
「大丈夫、親分さんたちはルーム・サーヴィスで取るから」
「あんた、いつも朝は早いじゃないか」
「もうちょっとこうしていたい」と、裸の胸にしがみつかれて頬を擦りつけられると、も
うアバッキオは逆らえない。
「なあ、あんたは顔洗っただけでいけるかも知れねえが、おれはいろいろ支度があるんだっ
てばよ」
「そのままでいい」
「いや今日は化粧はしねえけどそのほかに男としていろいろ……」
「いやだ」
いよいよ深く胸に顔を埋められて、アバッキオは弱り切る。
「ああ、もう、冷えるだろうがよ」と、毛布で肩を覆ってやって、腕を回して抱き返す。
そうして、何とも言えない幸福感にうっとり眼を閉じて……。
ドアを乱打されて、慌ててアバッキオは跳ね起きた。寝乱れた姿のままにドアを細く開
け、もう朝食を済ませたどころか旅装を調えたグリマルディーニ老に現在時刻を教えられ
て青ざめる。
「あー、こほん。お二人さんや、チェックアウトの時間は延ばしてもいいが、駅には２時
に集合じゃぞ」
咳払いをして、グリマルディーニ老が声を掛けると、ドアを閉めて出て行った。
ご機嫌なブチャラティがネアポリスに帰ってきて、フーゴはホッとした。いつもは天敵
のジェノヴァのお嬢さんにしたたかいびられて、真っ青になって予定を繰り上げて朝一の
特急で帰ってくるのに、今回は随分ゆっくりだった。やはり、アバッキオを付けたのは正
解だったようだ。
「お土産だ」と、ボストンバッグからチョコレート菓子や、ちょっとした小物、ナランチャ
におしゃれなＴシャツ、フーゴにスタイリッシュなボールペンなどどんどん出してくる。
どんどん……おや？
すっかり中身を出してしまって、ボストンバッグの底が見えてしまった。洗面道具なん
かはどうしたんだろう。いつものネイヴィー・ブルーのシンプルなランジェリー・ケース
も見あたらない。このひとのことだから忘れて来ることはないだろうが。
そこまで考えて、ふと、その横に置かれたアバッキオのボストンを見ると、昨日出たと
きよりあからさまに中身が増えたようで、やっとやっとジッパーがしまっている。ブチャ
ラティの荷物はこちらに入っているようだ。
……帰りはひとつになってたりしてな。
したり顔のタルティーニの声が耳に蘇って、フーゴはひとり微笑んでいた。
そして、会議の内容を伝達する話し合いが間をおかずに開かれた。
「この秋に落成する新オペラ・ハウスの興行に協力してやるようボスからお話があった。
オペラは夜遅くまでやるのが普通だから、帰りの客の安全が守られるように、近隣の治安
をしっかり守るってことと、あんまり阿漕な真似をするタクシーなんかを締めとけってこ
とじゃな。花売りの便乗値上げにも目を光らせとくんじゃよ？ あとは、まさかこんな田
舎のオペラハウスを狙うテロリストも居まいって話じゃが、時節柄爆弾騒ぎには気をつけ
るように」
「ハッ」
「移民には困ったものじゃが、苦しいのはお互い様ということで、必要以上に刺激せんよ
うにという話じゃ。
あとは、そうじゃな。良く聞いておくれ。
わしはこの夏限りで引退する」
静かな爆弾宣言に、会議室には沈黙が落ちた。
「ポルポさんに許可を戴いて幹部会にも報告した。この秋の新オペラハウスの完成を待っ
て、うちのシマはブチャラティに引き継いでもらうことにする」
「グリマルディーニさん、なにを、突然」
いきなり重要な話を振られて、ブチャラティは珍しく焦った様子を見せる。
「いやもう、このところのコンピュータがどうとかいう話にはわしはもう付いていけんの
よ。異常気象のせいで持病の気管支の具合も良くないし、苦労は若いのに押しつけたい。
ブチャラティは下町の難しいところを上手く治めておるし、押しつけすぎないぬるい感じ
が今の若い店主にはいいらしくって、うちのシマの商店主まで、ブチャラティのシマに鞍
替えしたいってのが出てきてメンツに関わるし。ここはもう全部ブチャラティに押しつけ
てしまおうかと」と、茶目っ気たっぷりに一座を見渡す。
これが、ブチャラティ以外には話を通してあったようで、
「異存ありませんな」
「まったくで」
「他に適任も居ないでしょう」と、郊外や近隣のシマのチーム・リーダーたちはあっさり
容認してしまった。
「というわけじゃ。シニョーラ・ブチャラティ。いいひともできたことだし、これで独り
立ちじゃ。ネアポリスをよろしく頼んだぞ」
「グリマルディーニさん！」
あっけにとられて立ち竦むブチャラティに、一同が頭を下げた。
「……解りました。お引き受けいたしましょう」
ひとつ頭を振って、ブチャラティは申し出を呑んだ。
「濡れますよ。アジトまで車を回しますから、乗っていってください」
タルティーニがもう言葉遣いを改めた。
「いいえ、結構です」
ブチャラティはそれを断って、歩いて帰途についた。朝から降っていた雨は、歩いてい
る間に上がった。タルティーニから連絡を受けたのか、夕食の買い出しに出ているアバッ
キオが、市場の端まで迎えに出ていた。プラチナ・ブロンドの頭のちょうど上に、淡い色
の虹が出ている。
「どうした？ わざわざ」
つい、駆け寄ってしまう。なんだか、ローマから帰って、アバッキオが穏やかになった
気がする。とげとげしい雰囲気が消えて、男っぷりが上がった。おかみさんたちの噂を聞
いて、はじめてこの男を見に行ったときのようだ。心にひとつの貴い目標を抱いていて、
それに身を捧げることを喜びと思っている顔だ。
そう、ずっと前から、この姿も心持ちも清々しい男に憧れていた。
「ご機嫌だな」
親しく腕を絡めてくるブチャラティに少し戸惑いつつも、アバッキオが頬を緩める。
「それはこっちの台詞だ。最近おまえのご機嫌がいいから、わたしも嬉しいんだ」
「そうか？」
アバッキオは、頭を傾げてみせる。淡い色の髪が、その背を滑ってゆく。
「雨が上がったからかな」
簡単に、理由をまとめて見せた。
「そんな、単純な」
ブチャラティの顔は、いっそう緩む。
「単純だよ、おれは」
「そうかな？」
とりとめもない話で二人は笑いあって、下町の通りを歩いていった。雨の洗った街を、
夕日が照らす。温かな光が、彼らを包んでいた。
（１２−０９−０９）
蛇足。
凄い難産。途中で熱出したせいかな？
アバッキオがブチャラティの恋人として認められる話を書きたかったのと、サン・ジョ
ルジュ・マジョーレ島での「おれが忠誠を誓ったのは組織にだ」という台詞に理由を与え
たかったのと。
うちのアバッキオは絶対組織に忠誠誓うわけないと思ったので、ブチャラティ個人への
思い入れの激しすぎるアバッキオを牽制するために、敢えて人前で誓わせた、という理由
を考えてみました。……本人恨みに思ってて、じゃあサン・ジョルジュ・マジョーレのあ
れは意趣返しか！ ってカンジになっちゃいましたが。いや、意趣返しちゃう。ちょっと
拗ねてみただけよ、前振りよ。ね？
あと、冬にはトラウマ全開でフーゴたちを心配のどん底に叩き込んでおいて、夏にミス
タさん加入するまでそのまんまって、そりゃいくら何でも長すぎ、ラブラブな時期がなん
もないじゃんと思ったので、ちょっとアバッキオ解凍を早めてみました。もうメロメロの
ドロドロで幸せな春を満喫してください（書けないと思います）。
よく考えたら、この冬の会議に連れてってやるって言ってたのはサントゥッツァの襲撃
直前だから、ポルポ収監前にはまだローマ・デビューしてなかったですね（ｃｆ．「不治の病」）。
んーっと、非常時だから、引き継ぎと顔見せのために無理言って収監待って貰って、中
学生みたいなフロラを連れてったことにしてください（冷や汗）。どんどん年表の空いて
るところがなくなってきて、話を入れる隙間に困るわあ。
書いてるうちに「生ハムメロン」シリーズの「汚名」の内容取り込んじゃいました（１８
禁指定ですがこういう内容でした）。ま、兄貴：ミカエラ・モンテッソーリ嬢本人出てな
いからいいでしょ？
（追加）
ダンスのシーンにファン・クラブのおじさんたちの反応を追加しときました。ご機嫌で踊ってる二
人を見たらもう認めるしかないでしょう。それぐらいの度量はあって欲しい（まいねヴェルトは基本
みんなお人好しです）。
そういえば、木曾義仲の愛人で美人武将として有名な巴御前は、義仲が討たれたあと、美人で武勇
に優れているというので、きっと強い子を産むだろうと探し出されて鎌倉方の武将の妻にされたとか。
スタンドが高い確率で遺伝するとみんなに知られたら、スタンド能力者の女性は子供を産まされまく
るのかしら。なんかむかつく。能力者同士が結婚したら……って妄想してることは自分も一緒なんだ
けど。そういうわけで、「きっと娘もスタンド能力者だ」と言う台詞は削りました。能力があろうが、
なかろうが、幸せな日々の結果として産まれておいで（いや、産まれないようにしてるけど）。
（子供ができる方の）パラレル世界での彼らの娘アンジェラの能力については、まだなんも思いつ
きません。やっぱ、かえって戦いに役に立たないスタンドの方が幸せになれそうで。
（１４−０９−０９）
おまけ。
「こっちへ。お待ちかねだ」
タルティーニにグリマルディーニのオフィスでの「息抜き」に招待されたフーゴが引き
合わされたのは……。
「まあ、やっと逢えたわ。パンナコッタくん、間近で見ると倍可愛いこと！」
丸顔の、ほんとうにひとの良さそうな老婦人。余りにも場違いなのでフーゴは固まって
しまった。
「奥様が、おまえと話がしてみたいって仰るから。お相手して差し上げてくれ」
……亡くなられたお孫さんが、生きてたらおまえくらいなんだよ。髪は亜麻色で、目は
青で。
早口に囁かれると、フーゴはそれで納得して、心からの笑みを老婦人に向けられた。
以来、フーゴは時々グリマルディーニ邸に呼ばれてお茶の相手や観劇のお供をさせられ
ることになった。
「ちょっと！ フーゴ、なんでこんなところでッ！」
「しーッ、今日のぼくはオッタービオなんだよ！」
平日の昼間の奥様同士ののんびりしたゴルフの集まりで、ルチアと偶然出くわして二人
して飛び上がったのは、また、別の話。ついでにクラブハウスに出た宝石泥棒を二人して
息のあったコンビで捕まえて、奥様たちから喝采を受けたりもしている。