Ｓｍｏｋｅ ｏｎ ｔｈｅ Ｗａｔｅｒ
その朝（６３）
張り込みは２時間も続いていた。
晩秋のネアポリス、ちょっと気取った恋人同士を偽装して、不穏な噂のあるチームのリー
ダーの内偵だ。下流のアルベルト橋に二人して寄り添って、囁き交わしながらずっとたた
ずんでいる。
「粘り強いな。飽きたならちょっと歩いてきてもいいんだぞ」
ナランチャならもうじれて大変な頃合いだ。まったく元警官というのは助かる。ブチャ
ラティは、長い栗毛のウィッグを押さえながら小首を傾げて微笑んだ。今日は変装だから
わりとしっかりめのメイクをしている。スカートも穿いてすっかり美人さんになって、ア
バッキオは役得。
「なにいってんだ」
アバッキオはムキになる。まだ拾われてひと月足らず、たいした仕事はできていなくて、
丁度面も割れていないからとフーゴが割り振った仕事に奮い立っているのだ。
「慣れてる。……まえの仕事のときにだってやったから」
ほんの少しの抵抗を隠さずにアバッキオは申告した。
「ああ、うん、なるほど」
ブチャラティは、優しくそれを無視する。
「おまえはそういうの得意そうだ。粘り強く、じっと、目的のために息を殺して身をかが
めて……」
「あ、いや、そんなことはない」
途端に、アバッキオは狼狽える。正直者。
「ずっと見てたんだ、解るよ」
ブチャラティの顔が、泣きそうにゆがむ。いや、これは笑顔の内だろうか。汚れきった
自分のことを、と、アバッキオは胸が詰まって、思わず橋の上だというのにブチャラティ
を抱きしめていた。
……フーゴは往来でこのひとの権威を損なうような真似をするなと言ったが。
変装してるんだ、構うまい。もう２時間もここに立ち話をしている恋人同士という設定
なんだ、少しはそれらしいことをしないと。ブチャラティからも抱き返されて、彼の理性
は一瞬飛んだ。
と、ブチャラティの方は、半分以上、おそらく９割方理性を保ったままで、自分が監視
を続けられるように顔の方向を対象の建物へ向けさせた。腕は愛おしげにアバッキオを抱
きながら。
もう２時間も動かないで、監視対象にも不審に思われる頃合いだろうが、こんな往来で
ラヴ・シーンをやるような女は「ブチャラティ」では有り得ないと思われるだろうな、こ
れはいいタイミング、と頭の冷えた部分が考えている。
狂おしいひとときは終わりを告げ、ゆっくりと、アバッキオは離れがたい身を引きはが
す。ふたりの間の湿った暖かさが、瞬時に橋の上を吹き抜ける風に冷まさせられる。眼は
建物に向いたまま、ブチャラティの手が労るように腕を撫でた。いつもとは逆に、ブチャ
ラティの方が移ってしまった口紅をぬぐうようにハンカチを差し出す。
……おれが対象から眼を離した間も、ずっと監視を続けていたのか！
今更に気づいて、アバッキオは自分の使えなさを思い知って打ちのめされる。と、手が
ジャケットの胸ポケットを探った。まだおぼつかぬ手つきで紙箱を取り出し、一本を取り
だしてライターで火を点ける。
一息吸い込んで、途端に咳き込んだ。
「煙草をやるとは聞いていなかったな」
うっかりその仕草を見守っていたブチャラティが尋ねた。背に手をやって、さすってやる。
「ギャング……だろ、煙草……ぐらい、やれない、と」
目立ってはいけないと思えば思うほどに、咳は激しくなり、返事は切れ切れとなる。
「そんなことはないぞ」
ブチャラティはその手から火の点いた煙草を取り上げる。
「無理に吸うことはない。なんだ、初めてなのか」
「慣らしてる途中だ……今までは、止める側だったから」
「そうだろうな……」
友人がいたずらに吸っていると、ガミガミ言って止めただろう。堅物な高校生時代をす
ぐに思い浮かべられて、ブチャラティはまた自然と微笑（わら）ってしまう。そして、手
に持ったままの煙草を、自分の唇に咥えた。
「なんでも形からはいる質なんだな。……おまえはそれでいいんだよ。無理することはな
い」
「あんたは吸うのか？」
「昔、少し……」
眼はやはり、川向こうの建物を向いている。
「オトナになりたかったからな。なめられないように、そういうところを見せなきゃって、
思ったな」
堂に入った吸い方だ。その横顔を、アバッキオは見守ってしまう。落ちかかった秋の日
が、ギャングの１９才の女リーダーの顔を黄金に染め上げている。
「もう随分前にやめた。久し振りだときついな」
こん、こんと空咳をして見せて、ブチャラティは煙草を橋の下に捨てた。手を伸ばして、
アバッキオの胸ポケットの煙草の箱も抜き取って、捨てる。
「あ、おい」
「髪が煙草臭い女はいやだろう？ アバッキオ」
「え？」
アバッキオは、今いろいろ情報の入った「濃い」瞬間だったことを察していたが、受容
する前にブチャラティはそれを「煙に巻いた」。
「この稼業、身体に染みつくほど煙草を吸っちゃあ不利だ、そういうことだ。
来たぞ、まともにあっちを向くなよ？ あのチョーク・ストライプのスーツがコリオリ
の代理人だ。やつら、やっぱり裏で繋がってたな」
「あ、ああ……」
「証拠写真、撮れるか？ こっちを撮る振りで」
「やってみる」
「レオーネ！ あたしを撮ってえ！」と急にしなをつくった声でブチャラティはポーズを
取って見せた。
ごく自然にカメラを出して構え、アバッキオは今日の張り込みの成果の写真を撮ること
に成功した。
「冷え切ったな、行こう。上出来だ。向こうのバールで温かいものでも飲もう」
画像を確認すると、自然にブチャラティは腕を絡めて歩き出した。
「無理しなくてもいい。おまえがいてくれるだけで、十分わたしは、うちのチームは助かっ
てるよ」
寄り添って、ブチャラティは静かな声で繰り返した。
「上出来です。こんなに早く証拠が掴めるとは」
フーゴもゴキゲンに彼を労った。
「報告書は今からぼくが。明日には持って行けるようにしておきます」と、オフィスに上
がっていってしまった。
「やはり面の割れていない人間がいると助かるな、奴ら、すっかり油断していたぞ」
ブチャラティは何度も肯いて眼を細める。
「ブチャラティが張り込みにスカート穿いてくれるもんな。ラッキー、眼の保養」
ナランチャはここぞとばかりにべたべたしながらヘンな方向に喜んでいた。
アバッキオはなんだか訳が解らないなりに、自分の存在意義を認めて貰って少し表情を
緩めていた。
１８−１０−１０
蛇足。
娘の学校のバザーのステージで、ディープ・パープルの「スモーク・オン・ザ・ウォー
ター」を聞きました。これはスタンドになってないのかな、とユーチューブで繰り返し聞
きながら、水の上で煙草を吸う話に持っていこうとして…挫折。船ならともかく、橋の上
はオン・ザ・ウォーターじゃないよね。アバーブかな？ まあ、ヴェネツィアならともか
く、ネアポリスで船の上はないかなと。まいねヴェルトのネアポリスには大きな川が流れ
ていて市を二分していることになってるので、その辺で。川の名前はリューゲ（嘘）川で
どうだ？ ドイツふうだけど。
地味に張り込みにも役立つ警察犬アバッキオなカンジでおねがいします。
フーゴはついでにデートしてきなさいッてつもりで出したと思うけど、仕事は忘れない
ブチャねーさんでした。
昔の不良はとりあえず煙草は当然よねというカンジですが、今はなにかと規制が厳しい
ですよね。うちのアバッキオは堅物なので、身体に悪いことはしないです。おかあさんも
バリバリの優等生だったので、未成年で女が煙草を吸うなんて！ と全く手も触れずに来
まして、前ジャンルでは原作でへヴィ・スモーカーな彼女に禁煙させたぐらいだったのに、
３０過ぎて、煙草を吸うキャラ（だーれだ？）を描くために初めてマルボロ買って……３
本で挫折しました。そー言えば結局彼も女体化させてやっと思いを遂げさせたんでした！
おかあさんたら最低！
えーごほん、なんでも若いうちにやっておくべきよね。どうでしょう？ その辺。